micro_ichiranyou_dai2.jpg
あれこれ

「どうする家康」で注目のエリア!愛知県西三河で家康ゆかりのスポットめぐり

2023年に放送されるNHK大河ドラマ「どうする家康」。有名な戦国武将・徳川家康の一生を描いた話題作です。家康と愛知県は切っても切れない関係であるというのはあまりにも有名ですが、愛知県西三河エリアにもゆかりの深い場所が多く存在しているって知っていましたか?

実は、あの主演俳優もロケですでに何度か訪れているそうですよ!今回は、そんな「知られざる家康スポット」をご紹介!この記事を読めば大河ドラマが何倍も面白く感じられる&もっと地元が好きになること間違いなしです!

【安城市】
敵将目前で散る...「本多忠高の墓」

おいしい水を持ち帰った「筒井井戸」

安祥城趾に建てられた「大乗寺」

一揆の面影を感じる「本證寺」の「鼓楼」

高い防御力「本證寺」の「堀と土塁」

【刈谷市】
「亀城公園」に存在した「刈谷城」

於大の方が住んでいた「椎の木屋敷跡」

【碧南市】

「竹千代」命名の寺「称名寺」

「伊賀越え」のルートだった?「大浜稲荷社」

家康が空腹を満たした「浅間神社」

安城市観光ガイドのお二人が解説!

arekore265_01.jpg

お話を伺ったのは、「安城ふるさとガイドの会」会長の平岩政志さん(写真右)と伊野克司さん(写真左)。この地域で長く観光ガイドをしていて、安城市やその近辺にまつわる歴史にはとても精通しています。

「家康といえば、生まれ育った岡崎や、彼が築城を命じた名古屋城などが有名ですが、安城や刈谷、碧南にも隠れた名所があるんですよ」「私たちがとっておきの場所を教えますので、ぜひ行ってみてくださいね!ドラマに登場する場所もあるかも?」とお二人。それでは早速行ってみましょう!

敵将目前で散る...大乗寺「本多忠高の墓」

arekore265_02.jpg

お二人によれば、安城歴史博物館のある安祥城(もとは安城城)址は、かつて織田軍と松平(のちの徳川)・今川軍が争奪を繰り広げていた場所なのだとか。この争いは「安城合戦」と呼ばれ、1540年からおよそ10年間にわたり続きました。

その近くにある大乗寺には、徳川四天王の一人としても有名な本多忠勝の父・忠高の墓があります。今川軍とともに安祥城の奪回を試みた忠高は、当時の城主・織田信広を本丸近くまで追い詰めました。ところがその直後、眉間に敵の矢を受けて討死にしてしまったのだそうです。

墓石を支えるいさましい大亀は、徳川に功績のあったものだけに許されるもの。徳川家に尽くした壮絶な戦のあとと、本多忠高の無念さを感じることができるでしょう。

住所:愛知県安城市安城町赤塚4-1

おいしい水を持ち帰った「筒井井戸」

arekore265_03.jpg

安城市内にある7つの古井戸跡。そのうちの1つ「筒井井戸」は、竹千代(のちの徳川家康)が岡崎に帰る途中で喉を潤した井戸なのだそうです。その時あまりの水の美味しさに、竹千代は「ぜひこの水を持って帰りたい」と言い、竹の筒に入れて持ち帰ったという言い伝えがあり、それが「筒井」の名の由来になったとされています。

「歴史博物館前」の交差点の東側、細い道路の脇にあるので、見落とさないように注意!幼いころの家康がそれほどまでに好んだ水は、一体どんな味がしたのでしょう?思いを馳せてみたくなりますね。

住所:愛知県安城市安城町横町

安祥城趾に建てられた「大乗寺」

arekore265_04.jpg

桶狭間の戦いの後、織田と松平との間で同盟関係が成立すると、安祥城は廃城に。やがてその本丸があった場所に大乗寺というお寺が建てられています。もともとは徳川家康の先祖である徳川宗家4代当主・松平親忠が城の北東に建立していましたが、江戸時代に現在の場所に移転したのだそうです。

見どころなのは、この雄大な山門。春には桜が美しく咲き誇るそうで、写真を撮りに訪れる人も多いといいます。

住所:愛知県安城市安城町赤塚1

一揆の面影を感じる「本證寺」の「鼓楼」

arekore265_05.jpg

1563年から1564年まで続いた三河一向一揆。家康と主従関係にあった主君たちが、家康への忠義と自身の信仰の間で揺れ動きながらも、敵・味方にわかれ争った戦いです。この中心寺院となったのが「本證寺(ほんしょうじ)」。家康が信頼を置いていたうちの一人・本多正信という武将はこの争いで、主君である家康の敵方につくことになります。

この本證寺の門に向かって右手側にある「鼓楼」は、太鼓を打って時を知らせる役割のほかに、物見櫓としても使われていたのだとか。本多もここから家康軍の動きを見張っていたのかもしれませんね。

住所:愛知県安城市野寺町野寺26

高い防御力「本證寺」の「堀と土塁」

arekore265_06.jpg

三河一向一揆の舞台となった「本證寺」は、外堀と内堀の2つの堀を持つ城郭寺院。本堂を奥へと進み、裏門を抜けた先には、現存する内堀と土塁を見ることができます。内堀は、本堂を中心に囲むものと、庫裡を囲むものの2つがあり、外堀はその外側に東西約320m、南北約310mにも及んでいました。

堀の内側に残る土塁は、基礎部分の幅が約7m、堀の底から土塁の上までの高低差は5m以上にもなるといいます。三河一向一揆がどれほど激しいものだったかを伺える、歴史的な資料となっています。

「亀城公園」に存在した「刈谷城」

arekore98_03.jpg

桜の名所としても知られる刈谷市の「亀城公園」。ここにはかつて刈谷城があったことをご存知でしたか?刈谷城は、徳川家康の母・於大の方の父親、つまり家康にとっておじいさんにあたる人物・水野忠政が築城しました。

その後刈谷城は9家22人もの藩主により支配されましたが、明治6年に解体。昭和12年から亀城公園として市民に親しまれています。本丸の北西の隅に建てられていた櫓の場所は、現在市民集会場である「十朋亭」になっています。

住所:愛知県刈谷市城町1-1-1

於大の方が住んでいた「椎の木屋敷跡」

arekore265_07.jpg

刈谷城から北東の方面にある、少し小高い丘。徳川家康の母・於大の方は、岡崎の松平広忠と離縁したあと、阿久比の久松俊勝へと嫁ぐまでの間、この場所に滞在していたことがあるのだそうです

この「椎の木屋敷跡」は、江戸時代は霊地として整備されていたため、一般には出入りが禁止されていましたが、現在は小さな東屋のほか於大の方の坐像が置かれ、日当たりのよい庭園として生まれ変わりました。

平岩さんによると、この於大の方は岡崎の方角を向いているのだとか。岡崎に置いてきた我が子・家康を思っているのだとしたら、とても切ない逸話ですね。

住所:愛知県刈谷市銀座6-58-1 ※住宅街のため駐車は近くの亀城公園などへ

「竹千代」命名の寺「称名寺」

arekore265_08.jpg

碧南市には、なんと幼い家康に「竹千代」と命名したお寺が!一説によると、1543年にここ「称名寺」で行われた句会で、お題の「神々のながきうき世を守るかな」に対して松平広忠は「めぐりは広き園の千代竹」と詠んだそうです。

「その句の中から、当時の和尚さんが家康の父に『竹千代はどうか』と献上したのだそうですよ」と伊野さん。家康の幼名にそんなストーリーがあったとは驚きですね。なお、この時の連句会で使用した文台や硯箱などは、碧南市の文化財として大切に保管されているそうです。

住所:愛知県碧南市築山町2-66

「伊賀越え」のルートだった?「大浜稲荷社」

arekore265_09.jpg

碧南市の海沿いにも家康ゆかりの地「大浜稲荷社」があります。この場所を説明するには、まず「伊賀越え」の話を少々。

歴史に残る大謀叛・本能寺の変が起きた1582年6月2日。明智光秀によって信長が討たれたあと、その危機は家康の身にも迫っていました。大坂でその報せを聞きつけた家康は、あまりの出来事に自害しようと考えます。しかし家臣の説得により、一刻も早く領地である三河国に戻ることを決意したのです。

この時の、大坂から伊賀を越えて船で三河へと渡るルートを「伊賀越え」と呼びます。その際家康一行が上陸したとされているのが、「大浜稲荷社」なのです。敷地の中程には、家康が上ったとされる石の階段が今も残されています。このときの家康の胸中を思いながら、階段を上ってみては?

住所:愛知県碧南市浜寺町2-67

家康が空腹を満たした「浅間神社」

arekore265_10.jpg

前述した「伊賀越え」を果たした家康は、お腹を空かせてこの「浅間神社」に辿り着きました。そんな家康を見かねて、農民たちは「麦えまし」という食事を与えたと言われています。一世一代の船旅を達成したばかりの家康ですから、このときの施しにはきっと身も心も満たされたことでしょう。

「浅間神社」周辺の地域では、今も「朝えまし」としてこの風習が残っており、夏の祭りでは神前にお供えをしているそうです。

住所:愛知県碧南市浅間町4-54

知られざる「家康スポット」へ出かけよう!

arekore265_11.jpg

いかがでしたか?愛知県安城市・刈谷市・碧南市にも、言わずと知れた有名スポットから、ガイドさんの視点ならではの珍しいスポットまで、家康ゆかりの地がたくさんありましたね。

来年の大河ドラマをより面白く観るためにも、ぜひお出かけしてみてくださいね!(取材:光田さやか/2022年6月取材)

関連記事