
余震を恐れ、小屋を建て寝泊り

三河地震のあとはあまりに余震が多く、たくさんの人が家の中での暮らしをおそれて、小屋を建てて寝泊りしていました。
自宅に庭や田畑がない西尾町のまちなかでは、写真のように道路にはみ出て小屋がけしました。
西尾市 中央通りの今

中央通りはいまも、その名のとおりメインストリートです。しかし一方通行が解除されるなどの変化により、近年では商店街の様子もずいぶん変わっています。
米津橋の仮橋も落ちる

米津橋の架け替え工事のために架けられた仮橋が、三河地震で落ちてしまいました。
本来の橋は、戦争による資材不足のため、橋台と橋脚だけの状態で、1941(昭和16)年に建設がストップしていましたが、仮橋が落ちてしまったため、急遽渡れる状態にされました。この写真は1946(昭和21)年のもので、その橋が左上に写っています。
1957年、米津橋の渡り初め

8代目の米津橋が、戦争と地震をのりこえ、1957(昭和32)年にようやく正式に完成。喜びの渡り初めが行われました。
左に見えるのは、名鉄西尾線の鉄橋です。
米津橋の今

三河地震で落ちた仮橋が架かっていたところには、いまは橋はありません。
現在の米津橋は、1988(昭和63)年に4車線となって全面開通しました。
地震により田んぼが池に

三河地震前は美しい田んぼだったところが、地震により地面が沈んで池のようになってしまいました。
田んぼだったことを示すように、写真の中央付近には積まれた稲わらが写っています。
戦後蘇った水没した田んぼ

水没した田んぼも、戦後、地元の人びとは力を合わせ、再び美田をよみがえらせました。
その後、この周辺では開発も進み、住宅も多く建っています。
現在の額田郡幸田町では「断層」が地表に現れる

三河地震では、地震によるずれの痕跡である「断層」が地表に現れました。
三河地震を引き起こした断層は、その後の調査で海底10キロメートル、陸上18キロメートルに渡っていることがわかっています。この断層沿いに、各地で大きな被害が出ました。
深溝断層では今でも当時の痕跡が

深溝断層は最大で2メートルもずれたので、いまでもその痕跡を見ることができる場所があります。
写真の付近は戦後、再び田んぼとして使われていましたが、1975(昭和50)年に愛知県の天然記念物に指定され、ずれがわかる形で保存されています。
(キャッチネットワーク発行 DVDブック「三河地震から70年」)
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